プラネット・カーモスⅡ
Prologue. ルナ・アイシュバルト
ルナ・アイシュバルトは愛情を享受できる少女だった。
無自覚に不自由なく育てられ、不運な選別から、混沌の星へ行かざるを得なくなったときも、両親が一緒だったから何も恐れはしなかった。
しかし独りでいることを余儀なくされたとき、それが無くても生きられることに気付いた。
やがて、三人目の親ができた。
「生きたければ金を儲けろ。その術を身につけろ」
養父は突き放すように度々そう口にする。
それは養父自身の存在を、少女が孤独に耐えられるまでの繋ぎと見なしているようで、ルナはちょっとだけ気に食わなかった。
生きるために捨て去ったものを茫漠と振り返ることが増えた。
虚空に帰した倫理。
綺麗事でしかなかった道徳。
合わせ鏡のような幸福。
はたしてその中に、両親の存在が含まれるかが問題だった。
「あんたを愛してるよ、ドルフ」
「あぁ、俺もさルナ」
向かい合った親子の繋がり。その輪郭を撫でるような関係にも、どうやら終わりがあるらしかった。
「だから選ぶんだ、我が娘よ。ルナ・アイシュバルトが進むべき道は、とっくに決まっていたのさ」
捨てたくても捨てられなかった名前、アイシュバルトをあえて口にした養父をルナは見つめる。
そして——。
1.親子/相棒。ルナとドルフ。
「今日こそ尻尾を掴んでやる」
鋭い眼光を湛えた娘が、憎しみも露わに呟いた。
その先の言葉を呑み込むように、水晶器を形の良い唇へ運ぶ。中の琥珀酒を僅かに口に含む姿は、齢十八の娘とは思えないほど屹然として見えた。
鋭さを湛える深紅の瞳に加え、純白のくせっ毛を狼古の尻尾で二つ結びにしている。
その色合いから、ルナに戦兎の風情を見るものも多い。しかしその実、ルナは生粋の”始まりの狼族”の生まれであり、その証として、頭部には髪と同色の尖った獣耳が覗いている。今はスカートの下に隠れてはいるが尻尾だってちゃんとある。
社交場の中にも関わらず着たままにしている烏の羽色クロウのコートはいわゆる仕事着で、胸元には一族を忘れないための戒めとしてあしらった狼ウルフの銀飾りが鈍く輝いていた。さらに烏の赤眼色レイブンのレギンスで脚を覆っていて、それが娘を更に大人びた雰囲気にさせた。
「ルナ、いつ何時も冷静を欠くなと教えたはずだ。判断を誤れば、掴んだ尻尾の先が巨竜だったなんてことにもなりかねない」
独り言のつもりだったのに、隣人からの諫言に遭った。ルナの頭部で、真っ白な獣の耳がピクリとそばだった。それはもはや条件反射だ。ルナにとって養父の言葉はいつだって先を歩むための標として在り続ける。
「わかってるさ、ドルフ。わたしだって下手を打つ気はないよ」
「どうだかな。なまじ力があるばかりに、腕っぷしに頼ってしまうのはお前の悪い癖だ。いつも言っているだろう。生きたければ——」
「“金を儲けろ、その術を身につけろ”。——だろう?」
刷り込みのように幾度も聞かされ続けた養父の教えを引き継いで口にすると、途端に頭が冴えてしまった気がして、ルナは少し悔しくなる。
自然と、隣に腰掛ける養父にジトリと視線をやっていた。
そんな娘の機微を知ってか知らずか、ドルフはいつものようにホットミルクをちびちびと飲んでいる。
ドルフは“英智の獣”と呼ばれる種族だ。
ルナが耳や尻尾を有する以外は人型であるのに対し、ドルフの見た目はまさに獣のそれだ。
人語を解し、二足歩行する猫。この説明で事足りるが、猫より遙かに悠然たる尻尾をしている。ドルフの身長はルナの胸元ほどだが、尻尾はそれに届かんとするほど大きい。本人が迷惑がるのを無視して、このフワフワの尻尾に抱きつくのをルナは好んでいた。
ただ、ドルフの懐の深い紳士的な所作と、きってのオシャレ好きもあって、彼を一介の獣として見る者などいない。
灰色の毛並みに沈む、一目で高級と分かる烏の羽色のコートにシルクハット、そして丸眼鏡の奥で知性を湛えて光る黄金色の瞳が、ドルフをいっそう紳士然とした佇まいにさせていた。
見かけに寄らず下戸なこの男は、社交場を訪れても一切の酒類を口にしない。
“情報こそ最大の武器”を信条とするドルフにとって酩酊こそ難敵ということもあるらしい。
ただ、酒を趣向とするルナにしてみれば、ほろ酔いくらいが情報も集めやすいのではないかとか、そもそも暴力でこそ情報を集め、その上で金を稼げるのならそれが手っ取り早いのではなどという物騒な考えを抱いてしまうのだった。
「暴力にすがるうちは、お前は何者にもなれない。何より暴力を無闇に振るえば、心根が蝕まれる。暴力を飼い慣らし、情報を携え、正しき道を歩むんだ、ルナ」
ちらりとルナを見つめ、見透かしたようにドルフが言う。
(なんだよ、今さら正しいもへったくれもないっての……)
ルナは内心で悪態をつくが、ドルフが見せる厳しさには、いつだって親心が感じられるから無下にすることなんて絶対にできない。
「ズルいよなぁ」
「ふん。精進しろよ、我が娘よ」
端的なやり取りだけで通じ合う。それもまた、ルナにとってこれ以上ない喜びだった。
「なぁドルフ? ちょっとだけコレ、飲んでみない?」
「俺は酒は飲まん。……まったく、どうして酒飲みの連中は他人に飲ませたがるのやら。互いの嗜好を全うすれば、それで十全だろうに。極めて非合理的だ」
「ちぇ。こういうのは、誰と一緒に飲むかが大事なんだよ」
「なら良い男の一人でも掴まえてくるんだな」
「……ドルフ。それ、かなり意地悪だよ」
ルナは拗ねるように唇を尖らせ、机カウンターに片肘つきながら、華奢な五指で摘まむようにして水晶器を口元へ運んだ。
自分が男勝りで可愛げがないことも、異性の保護欲をそそるほどに弱くないことも、ルナはちゃんと理解している。もちろん男どもにちやほやされたいわけでは決してない。それでも、ルナにだって年頃の娘特有の憧れが多少はあるのだ。
琥珀酒の煙たい香りが鼻腔を抜ける。
水晶器を持たぬ方の手が、自然と太ももの拳銃嚢へ伸びた。コートの下にある愛銃の感触を確かめるように撫でると、僅かな酔いに浮つく脳内に、冷たく乾いたものが混ざる感覚に陥った。
それが心地よかった。
そんな娘の様子を目聡く眺めているドルフに、ルナは気付いていない。
ドルフは結局、何も言わなかった。
しばらく沈黙があって、Linという水晶鈴の音が薄暗い店内に響いた。
入り口の方を見やったルナが、愉快そうに口の端をつりあげた。
強者独特の雰囲気を纏った男が一人、立ち尽くしたままこちらに鋭利な視線を向けている。
「さすが。ドルフの言う通りだ」
一方のドルフは瞑目して大きく息を吐き出した。
「今日ばかりは俺の情報も外れて欲しかったところだ」
冷めて生温かくなってしまっただろうミルクを悠々と飲み干すドルフ。
ルナはくつくつと笑みを零し、残っていた琥珀酒を一気に飲み干した。
「マスター、ありがとう。また来るよ」
ルナが立ち上がる。数枚の硬貨を机に置いたドルフもそれに続いた。そのまま入り口で佇む者に歩み寄っていく。
「鬼か。面白いね。ふふ、外にあと何人いるかな」
「外には二人。奏印の人に天玲だ」
事前情報だけで断言できるドルフの情報網に半ば呆れつつ、全身の血が熱く昂ぶるのをルナは感じていた。
(話し合いで済むか、それとも戦闘になるか……)
どちらを望むのかを自身に問うてみて、口の端が持ち上がる。
ルナの応えは、決まり切っていた。